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福岡地方裁判所 昭和43年(ワ)55号 判決

福岡県鞍手郡宮田町大字磯光一八二七の六

原告 亡松野武利訴訟承継人 松野美代子

〈ほか四名〉

右原告ら訴訟代理人弁護士 小野山裕治

東京都千代田区九段南四丁目八番二一号

被告 国際協力事業団

右代表者総裁 法眼晋作

右指定代理人 伴喬之輔

同 古賀庸之

主文

一  被告は

原告松野美代子に対し金一六〇万六二七一円及び内金四一万二九〇〇円については昭和四〇年九月一六日から、残金一一九万三三七一円については同四一年六月一五日から各完済まで年五分の割合による金員を

原告松野昌代に対し金四〇万六四五〇円及び内金二〇万六四五〇円については同四〇年九月一六日から、残金二〇万円については同四一年六月一五日から各完済まで同割合による金員を

その余の各原告に対しては各金二〇万六四五〇円及びこれに対する同四〇年九月一六日から完済まで同割合による金員を

それぞれ支払え。

二  各原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その三を被告、その余を原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告は

(一) 原告松野美代子に対し金二四七万四九三七円及び内金七八万一五六六円については昭和四〇年九月一六日から、残金一六九万三三七一円については同四一年六月一五日から各完済まで年五分の割合による金員を

(二) 同松野昌代に対し金九九万〇七八三円及び内金三九万〇七八三円については同四〇年九月一六日から、残金六〇万円については同四一年六月一五日から各完済まで同割合による金員を

(三) その余の各原告に対し各金三九万〇七八三円及びこれに対する同四〇年九月一六日から完済まで同割合による各金員を

それぞれ支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  被告

1  原告らの各請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

3  担保を条件とする仮執行免脱の宣言

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  (当事者)

原告松野美代子は亡松野武利の妻であった者であり、その余の原告らはいずれも右美代子及び武利間に生れた実子である。被告は、昭和四九年八月一日同年法律第六二号に基づき設立された特殊法人であって、その設立と同時に解散した海外移住事業団の権利義務の一切を承継したものであり、同事業団は、同三八年七月五日同年法律第一二四号に基づき設立された特殊法人であって、その設立と同時に解散した財団法人日本海外協会連合会(以下単に海協連と略称する。)及び日本海外移住振興株式会社の権利義務の一切を承継したものである。

2  (松野武利、原告美代子及び同昌代の被害)

(一) 松野武利は、昭和三〇年一〇月から福岡県鞍手郡宮田町所在の貝島炭鉱株式会社に勤務していたのであるが、同三四年一〇月ごろ、将来の炭鉱不況を見越し海外に新天地を求めるべく、親族の訴外吉田光治及び同吉田田市とともに家族をあげてパラグアイ国に移住することを決意した。そこで、松野武利は同年一一月初旬右訴外人らと共に福岡県庁内にある財団法人福岡県海外協会(以下単に県海外協と略称する。)を訪れ、パラグアイ国への移住を希望してその職員であった財津勇に相談したところ、同職員は松野武利らに対し、同国には適当な移住地はないが、ブラジル国パイア州所在のジュセリノ・クピチェック植民地(以下単にJ・K植民地と略称する。)が最適であるから、同植民地へ移住するよう勧めた。その際、同職員は松野武利らに対し、海協連発行のJ・K植民地募集要領等に基づき、同植民地への移民募集条件ないし同植民地の自然条件等について、次のような事項を説明した。

(1) 一家族につきおおむね一五才以上五五才までの稼働力が三名以上あること。

(2) 一家族に対し一ロッテ(平均約二五ヘクタール)を有償譲渡する。なお、移住者が現地で分家独立する場合を考慮して、これがために一〇ロッテを保留する。

(3) 営農資金を貸与する。

(4) (2)による分家独立の場合には独立資金を貸与する。

(5) 入植地は肥えていて、五年間肥料を必要としない。

(6) 入植地には風土病がない。

(二) ところで、松野武利の家族は稼働力が同人とその妻である原告美代子の二名だけであったため、右募集条件に適合せず、そのため右財津職員の説明を受けた段階では松野武利は移民を断念したのであった。しかしながら、後日同職員が海協連に問合わせたところ、訴外吉田光治の家族構成員として同植民地に入植し、現地で分家独立する形式をとれば、前記分家独立用ロッテが分譲されるということであったので、松野武利はこれを信じ、同年一一月中旬、同訴外人と共に同植民地へ移住することを決意し、その準備と手続にとりかかった。そこで、早速渡航前にも貸付けるという営農資金の貸与を申込んだが、福岡を出発する日までに手続が間に合わないことや、現地で融資を受けた方が利息及び償還期限の点で有利であるという県海外協の説明を受けたため、その申込を取止め現地融資を受けることにした。そして、松野武利は、前記勤務先を退職し、家財等を処分して身辺を整理し、県海外協の指示に従い現地での農業に備え農業機械、種苗、作業服、地下足袋等多数を購入し、長女の原告満代(当時二才)を父母に預け、妻の原告美代子及び二女の同昌代(当時一才)を伴ない、親族、知人と離別を惜みながら、右訴外人の家族と共に昭和三五年一月二二日福岡を出発し、同年二月二日ブラジル国へ向け神戸港を出航した。

(三) 松野武利とその家族は同年三月一〇日J・K植民地に入植し、翌四月には県海外協の前記指示どおり、吉田光治の家族から離れ、同植民地の経営者であるバイア州及びブラジル国移植民院に対し、分家独立用一ロッテの分譲を申込んだところ、右分家独立用ロッテは既に計画移住地に決定されていて分譲すべきロッテはないとの理由で分譲は拒否された。なお、松野武利が昭和三六年一月三一日現地における移住者の引受世話機関である海協連リオ・デ・ジャネイロ支部の大谷晃に対し、日本における説明と現地の実情との相違を問いただしたところ、「分家独立とは、植民地内で成長した青年が現地で結婚して分家する場合をいうのであって、松野武利の場合はこれに該当しない。入植条件として稼働力三名以上という条件は日本の方で勝手につけたものであって、現地ではそのような条件を要求していない。同人の場合も当初から一世帯として計画移住の申込をしておればロッテの分譲を受けられたはずだが、吉田光治の家族として入植した以上、これとは別個にロッテの分譲を受けることはできない。」ということであった。そのため、松野武利の家族は遂にJ・K植民地においてロッテの分譲を受けることができなかったのである。その他に、現地での営農資金の貸与については、海協連のリオ・デ・ジャネイロ支部では取扱っていないということでこれまた断わられた。そのうえ、同植民地は多量の肥料を要する痩地であり、マラリアの風土病地域でもあった。

(四) 以上のような海協連の移民斡旋条件と現地の実情との大きな喰い違いのため、松野武利の家族はJ・K植民地での営農の見通がたたず、昭和三五年七月一〇日には同植民地を退耕し、各地で分益農をしながら、海協連リオ・デ・ジャネイロ支部ないし海外移住事業団レシーフェ支部に対し斡旋条件の履行ないし善後措置を求めて交渉を重ねたが、遂にそれは実現されなかった。そこで松野武利とその家族は昭和四〇年五月二四日帰国を決意し、同人は同年九月一三日ブラジル国レシーフェを立ち同月一六日羽田空港に帰着し、原告美代子及び同昌代並びに同国で出生した同敏之及び同真理は昭和四一年四月二八日同国サントス港を立ち同年六月五日神戸港に帰着した。

(五) 以上のように、松野武利とその家族は、県海外協ないし海協連の誤った入植斡旋によりJ・K植民地へ入植させられ、後記4のとおりの損害を蒙ったのであるが、この点については後記3のとおり海協連に過失責任がある。

3  (海協連の責任)

(一) 海協連と県海外協との関係

海協連は、海外移住の斡旋及び援助を行ないかつ海外移住の推進を図ることを目的とする団体であって、右目的を達するため移住者の募集、選考等のほか、移住者に対する渡航費その他の資金の貸付及びその回収に関する事業等を行っていたものであり、県海外協は、海協連の一会員で、昭和三四年当時は海外移住の啓発、広報等の業務のほか、海外移住に関し主務官庁または海協連からそれぞれ命ぜられまたは委嘱された事業を行っていたものである。そして、県海外協は、海協連から委嘱された業務として、海協連の調査、選定した移住地につき、海協連が決定した募集条件に基づいて福岡県内において移住希望者を募り、移住適格者を海協連に推薦し、移住者に対して講習を行っていたものであって、その際、海協連が決めた募集要領の趣旨、解釈、運用面で不明確な点や確認すべき点があるときは、県海外協はすべて海協連に照会しこれを確認したうえで右委託業務を行っていたものであり、県海外協が独自の立場で移住地の調査、選定及び募集条件の決定等をしていたものではなかった。したがって、県海外協の移住希望者に対する説明や指導の内容にっいての責任はすべて海協連にあるというべきである。

(二) 海協連の過失

松野武利は、県海外協から前記のような内容の入植条件等の説明、指導を受けてJ・K植民地への入植を決意したものであるが、県海外協の右説明、指導と現地の実情とは前記のように全く異っていた。その原因は、右のような海協連と県海外協との関係を考えると、海協連の行なったJ・K植民地の入植条件及び自然条件についての調査並びに募集要領の決定に明かに誤った点や不十分な点があったからである。ところで、海協連は、移住者の生涯を賭けた海外移住の斡旋、援助を行なうものである以上、斡旋の対象となる入植地の自然条件及び入植条件等については詳細で正確な事前調査をなし、これに基づいて詳細かつ正確な募集要領を作成したうえで県海外協に対し募集業務を委嘱すべき注意義務を負うものである。しかるに海協連は、ブラジル駐在日本大使館付藤勝書記官が昭和三二年四月にスペイン移住調査団の調査に便乗して行なった不十分な調査報告のみに基づいて、J・K植民地への入植者募集を決定したのであり、右調査報告自体が、「右調査は他国の調査団に便乗してなしたもので十分な調査といえないから、更に精密な現地調査を行ない、その結果によっては……日本人移住者の導入の実現を図るのが適当である」と述べているにもかかわらず、右調査以外の調査を行わなかったのである。その結果、海協連は、前記のような現地の実情と相違する募集要領を作成し、県海外協に対する誤った指導を行なったものであるから、海協連には、この点で松野武利、原告美代子及び同昌代を誤った期待のもとにJ・K植民地へ入植させ、後記損害を蒙らせたことにつき過失責任を免れないものというべきである。

4  (損害)

(一) 慰藉料

松野武利、原告美代子及び同昌代は、前記のような海協連の無責任な移民斡旋に欺され、異国の地に放り込まれた。松野武利は必死になって海協連及び海外移住事業団に対し斡旋条件の履行を求めあるいは善後措置を期待しながら、五年有余の間家族とその日暮しの苦しい生活を斗い続け耐えて来た。しかし、夢は破られすべてが奪われ無駄に終ってしまった。海協連及び海外移住事業団の無責任と不誠実、無策と無計画な移住の斡旋がもたらした松野武利の精神的苦痛は全く筆舌に尽し難いものである。この精神的苦痛は原告美代子及び同昌代においても同じである。右精神的苦痛に対する慰藉料としては、松野武利及び原告美代子について各金一三〇万円、同昌代について金六〇万円が相当である。

(二) 松野武利の逸失利益

松野武利は、J・K植民地へ入植するため、昭和三五年一月一四日従前の勤務先の貝島炭鉱株式会社を退社したが、もし入植していなければ右退社時から帰国した同四〇年九月までの五年八月間、同会社から給料収入を得ることができたはずである。同人の退社時における給料は毎月手取額が一万八〇〇〇円を下らない額であり、その他に毎年八月と一二月に各一か月分の給料に相当する賞与を受けていたから、右期間中の給料収入額は合計一四二万八〇〇〇円となる。これから毎月の生活費として一万二〇〇〇円を差引くと、同人の右期間中の逸失利益は六〇万六〇〇〇円となる。

(三) 旅費

海協連の本件不法行為がなければ、松野武利、原告美代子及び同昌代はJ・K植民地へ移住しなかったのであるから、同人らの往復旅費並びにブラジルで出生した原告敏之及び同真理の帰路旅費は右不法行為による損害といえる。

(1) 松野武利支出分 四三万八七〇〇円

ただし、松野武利、原告美代子及び同昌代の神戸、サン・サルバドル間の往路船賃計二二万九五〇〇円、松野武利のレシーフェ、羽田間の帰路航空運賃三二万六六五〇円、同人の東京、小倉間の列車運賃四〇五〇円及び原告真理のサントス、神戸間の帰路船賃一〇万八〇〇〇円、以上合計六六万八二〇〇円の内金

(2) 原告美代子支出分 三九万三三七一円

ただし、原告美代子、同昌代及び同敏之のレシーフェ、サントス間の帰路列車賃二万〇三九一円並びにサントス、神戸間の同じく帰路船賃三七万二九八〇円の合計額

5  (権利義務の帰属)

以上によれば、本件不法行為に基づき、海協連に対し、松野武利は金二三四万四七〇〇円とこれに対する同人が日本に帰国した日である昭和四〇年九月一六日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金を、原告美代子は金一六九万三三七一円、同昌代は金六〇万円及び右各金員に対する同原告らが日本に帰国した日である同四一年六月一五日から完済まで同割合による各遅延損害金を、それぞれ請求する権利を有するところ、松野武利は同四八年八月三〇日に死亡したので、その相続人である原告らが同人の右請求権を法定相続分に応じて承継取得した。したがって、結局、原告美代子は金二四七万四九三七円及びその内金七八万一五六六円については同四〇年九月一六日から、残金一六九万三三七一円については同四一年六月一五日から各完済まで年五分の割合による金員、同昌代は金九九万〇七八三円及びその内金三九万〇七八三円については同四〇年九月一六日から、残金六〇万円については同四一年六月一五日から各完済まで同割合による金員、その余の原告は各金三九万〇七八三円及びこれに対する同四〇年九月一六日から完済まで同割合による各金員の支払を求める権利を有するものである。他方、海協連の右債務は、前記のように海外移住事業団を経由して被告に承継されたから、被告は原告らに対して右の各金員を支払う義務がある。

6  (結論)

よって、原告らは被告に対して請求の趣旨記載のとおりの不法行為に基づく損害金及び遅延損害金の各支払を求める。

二  請求原因に対する被告の認否及び主張

1  請求原因1記載の事実は認める。

2  同2記載の事実について

(一)のうち、松野武利が原告ら主張の当時その主張の炭鉱会社に勤務していたこと、同人がその主張の親族と共に県海外協を訪れて海外移住の相談をしたことは認める。県海外協の職員が同人に対し、入植地は肥えていて五年間肥料を必要としないと説明したことは否認する。募集要領にはそのような記載は全くない。その余の事実は知らない。

(二)のうち、海協連が県海外協の問合わせに対しその主張のような回答をしたことは否認する。海協連は、松野武利と吉田光治との家族が募集要領所定の「三親等以内の者で構成された自然家族」に該当するので、両家族で一世帯として入植することが可能であること及びJ・K植民地には将来入植者の分家独立に備えて一〇ロッテが保留されているという客観的事実を県海外協に伝えたにすぎない。海協連が発行したJ・K植民地概況には、「残り一〇ロッテは将来これら移住者が現地で分家独立する場合を考慮し、これがために保留する。」旨の記載があるが、右記述を読めば、分家独立用ロッテというものが、移住者の家族構成員である子弟が将来婚姻等により分家独立する場合を予想して保留されているものであることくらいは何人でも直ちに理解できる。したがって、海協連がこれと異なる説明をするはずがない。また、稼働者三名以上の条件を満さないため、他の家族構成員として入植し、現地で直ちに分家するなどという方法は、右条件をくぐり抜けるためのいわば脱法的手段であり、このような手段が自由に認められるとすれば、右条件は事実上無意味になってしまう。したがって、海協連がこのような脱法的手段を勧めるなどということはあり得ない。もし県海外協の職員が松野武利に対し分家独立用ロッテについて説明したとすれば、それは、松野武利の家族が訴外吉田光治の家族構成員として入植した場合でも、将来分家したときはロッテの分譲を受けることができるということを説明したのであり、入植後直ちに分家独立してロッテの分譲を受けることができるなどという趣旨で説明したものではない。松野武利がそのような趣旨に受取ったとすれば、それは同人の軽率な誤解によるものというべきである。松野武利、原告美代子及び同昌代がその主張の日時にブラジルへ向け出発したことは認める。その余の事実は知らない。

(三)のうち、松野武利らの家族がその主張の日時にJ・K植民地に入植したこと、同人がその主張の日時に植民地当局に対し分家独立用ロッテの分譲を申込んだが拒否されたこと、同人がその主張の日時に海協連リオ・デ・ジャネイロ支部を訪問し、分家独立の意味の説明を求めたこと、これに対し大谷支部長が、分家独立とは子弟が入植地で結婚して分家独立することをさす旨の分家独立の通常の場合のことを説明したこと及び同支部は営農資金の融資を取扱っておらず、したがって融資に応じなかったことは認めるが、その余の事実は否認する。松野武利が分家独立用ロッテの分譲を拒否されたのは、原告ら主張の理由によるのではなく、同人が分譲を申込んだのが入植して間もないころであり、吉田光治の家族構成員として入植した以上、同人の営農の見通しがたつまでもうしばらく待つようにとの理由で拒否されたにすぎないのである。J・K植民地は広大な植民地であり、分家独立用ロッテは実際二〇ロッテ用意してあったのであるから、松野武利が性急に分家独立のためのロッテを要求しないで、吉田光治の家族構成員として営農にはげみ十分な実績をあげれば、近い将来において分家独立用ロッテの分譲を受けられたはずであり、実際そのようにして分譲を受けた者も数名あったのである。しかるに、松野武利は、まじめに営農に励まず、分家独立用ロッテの分譲を受けられなかったことに不満を持ち、他の入植者や植民地当局者に対し粗暴な行動に出たため、昭和三六年一月二一日、J・K植民地所長ジョン・メレイレス・デ・ソーザから退耕を命ぜられ、遂にロッテの分譲を受けられずに終ったのである。また、入植地は農耕上肥料を必要としたことは事実であるが、入植地では各種の作物を作るのであり、そのためには作物の種類に応じて異種の肥料を必要とするのは当然であって、肥料を必要とするが故に痩地であるとはいえない。

(四)のうち、ブラジルにおいて松野武利と原告美代子の間に原告敏之及び同真理が生れたこと、松野武利及び原告らがその主張の日時にブラジルを立って日本に帰国したことは認めるが、その余の事実は否認する。昭和三九年ごろ、海外移住事業団レシーフェ支部長であり同時に日本海外移住振興株式会社の現地法人であるイジュウシンコウ信用金融株式会社の職員でもあった竹野家茂に対し、松野武利から土地購入資金及び営農資金として最高限度額の融資の申込みがあったが、同会社はその当時資金繰に逼迫し同年末まで融資を一切停止せざるを得ない事情にあり、これに応ずることができなかった。昭和四〇年に入りようやくJ・K植民地入植者一戸あたり四〇〇コントの営農資金の融資を再開し、松野武利にも右融資の申込をするように通知したが、同人はその申込をしなかったものである。また、同人の帰国の理由は、同人が現地生活に行詰まり、右竹野家茂が自分の言いなりの融資をしないことを理由に、同年八月一三日レシーフェ支部において同人をダイナマイトで爆殺し自らも自殺しようとしたため、ブラジル国保安当局から危険人物として国外退去の措置をとられたことによるものである。

(五)は争う。

3  請求原因3記載の事実について

(一)の事実は認める。しかし、県海外協は原告ら主張の業務の他にも広く貿易と国際文化交流の発展、振興を目的とする幅広い業務を行なっていたものであり、海協連とは法律上全く別個独立の団体であった。両者は、原告ら主張の業務について、委託関係にあるにすぎず、右業務に関し海協連が県海外協を指揮監督するという関係は実質的にも存在しなかった。したがって、県海外協の行為について海協連が責任を負うべきいわれはない。

(二)については争う。海協連の作成したJ・K植民地移住者募集要領の内容及び県海外協に対する指示説明には、前記請求原因2に対する主張として述べたように、何ら誤りがなかったものであるから、松野武利の同植民地における営農の失敗について海協連には何ら責任がない。

なお、付言するに、原告らの主張によれば、松野武利の同植民地退耕の理由は、分家独立用ロッテの分譲を受けられなかったことのみにあるというべきであって、同植民地の土壌が痩せていたことやマラリアの風土病があったことは、ロッテの分譲を受けたことを前提とする問題であるから、これらの事由は退耕の理由にならないものである。また、融資を受けられなかったことも同植民地退耕後の事情であるから、退耕の理由にならない。そして、分家独立用ロッテの分譲を受けられなかった理由は、前記のように、松野武利が県海外協の説明を誤解し、入植後直ちに吉田光治の家族から分家独立してロッテの割当を受けられるものと信じ込み、それに固執してあくまでも自分の見解に基づいて要求を通そうとしたためであって、この点について海協連に責任はない。また、原告らの主張によれば、現地では入植者一世帯につき稼働力三名以上を要するという条件を付しておらず、松野武利の家族も最初から独立の一世帯の計画移住者として入植しておれば、一ロッテの分譲を受けられたはずだということであるが、仮にそうであったとしても、右の条件は、海協連の方で植民地の自然条件から移住事業の困難性を考慮して付した条件であると考えられるから、この点については何ら非難されるいわれはない。そして、海協連は松野武利に対し、あくまでもJ・K植民地への入植を斡旋したにすぎないから、同人が同植民地を退耕したことについて海協連に責任がない以上、同人のブラジル国への移住の失敗のすべてについて海協連が責任を負うべき理由は全くない。

4  請求原因4記載の損害額の主張はすべて争う。

5  同5記載の事実中、松野武利がその主張の日に死亡したこと及び原告らが同人の相続人であることは認めるが、その余の点はすべて争う。

三  被告の抗弁―消滅時効

原告らの本訴請求は、不法行為に基づく損害賠償請求であるから、その消滅時効は原告らが損害及び加害者を知ったときから三年を経過したときに完成するものであるところ、原告らの主張によれば、本件不法行為は、海協連が決定したJ・K植民地入植者募集条件等が現地の実情と相違していたことをさすわけであるから、原告らが本件不法行為による損害及び加害者を知ったのは、遅くとも松野武利とその家族がJ・K植民地を退耕した昭和三五年七月一〇日かあるいは同植民地を追放された同三六年一月二一日であるというべきである。そうすると、原告らの本訴請求権は、本件訴提起前に既に時効消滅しているといえる。

四  抗弁に対する原告らの主張

被告の抗弁は争う。民法七二四条所定の「損害及び加害者を知ったとき」とは、時効制度の目的に照らせば、被害者の加害者に対する損害賠償請求権の行使が事実上可能な状況のもとに損害及び加害者を知ったときの趣旨であると解すべきところ、松野武利、原告美代子及び同晶代において本件損害賠償請求権を行使することが事実上可能になった時は、松野武利については羽田空港に帰着した昭和四〇年九月一六日であり、その他の原告については神戸港に帰着した同四一年六月一五日であるから、原告らの本訴請求権はいまだ時効消滅していない。

第三証拠関係≪省略≫

理由

一  請求原因1記載の事実は当事者間に争いがない。

二  そこで、請求原因2記載の原告らの主張について考察する。

1  県海外協の松野武利に対する移住斡旋について

(一)  ≪証拠省略≫を総合すると、以下の各事実を認めることができる。

(1) 松野武利は、昭和三四年当時、福岡県鞍手郡宮田町所在の貝島炭鉱株式会社に勤めていたのであるが(この点は当事者間に争いがない。)、その当時、炭鉱業界の将来には必ずしも明るい見通しはなく、他方海外移住者の輝かしい成功の結果が伝えられていた折でもあったので、自らも開拓自営農として海外に移住したいと考えるに至り、同年一〇月ないし一一月頃、妻の原告美代子の父である吉田光治及び同原告のいとこである吉田田市と共に、数回に亘り県海外協を訪れ、その職員であった財津勇と海外移住について相談した(松野武利が右吉田光治らと共に県海外協を訪れ、海外移住の相談をしたことは当事者間に争いがない。)。

(2) 松野武利としては、当初パラグアイ国への移住の希望をもって相談に臨んだのであるが、右財津勇の説明によると、同国にはその当時適当な移住地がなく、ブラジル国バイヤ州所在のJ・K植民地が最適の移住地であるということであったので、松野武利らは同植民地への移住について右財津勇と相談を重ねた。その際、松野武利らは右財津勇から、海協連の作成したJ・K植民地概況と題する資料(甲第三号証)や、日本海外移住振興株式会社の農業融資関係資料等のパンフレット類の交付を受け、同植民地への入植条件や自然条件等について種々説明を受けた。

(3) 右パンフレット類の記載内容及び財津勇の説明によると、同植民地への入植条件として、一世帯につき、おおむね一五才から五五才までの稼働者が三名以上必要であり、世帯は三親等以内の自然家族で構成されたものでなければならないということであった。ところが、松野武利の家族は、右条件に該当する稼働力が同人と妻の原告美代子の二名しかなく、右入植条件に適合しなかったので、同人は同植民地への入植を一時は断念した。しかし、右財津勇が松野武利に対し、吉田光治と原告美代子が父娘の関係にあるので、松野武利の家族が吉田光治の家族構成員として入植すれば右条件に適合すること、及び前記甲第三号証の資料に「残り一〇ロッテは将来これら移住者が現地で分家独立する場合を考慮してこれがために保留する」旨の記載があったので、松野武利の場合も入植後分家独立することによりロッテの分譲を受け得る可能性があることを説明したところ、同人は右の点が確かならば入植したい旨返答した。そこで、右財津勇は海協連にその点を問合わせたところ、同人の解釈は間違いない旨の回答に接したので、その旨を松野武利に説明した。

(4) また、松野武利は右財津勇から、入植条件に関することの他に、入植地の自然条件として、土壌は良く肥えた土地で少なくとも三年くらいは無肥料で耕作可能であり、風土病もない健康地である旨の説明を受けた。もっとも、前記甲第三号証のJ・K植民地概況には、入植地であるJ・K植民地イタピシリカ地区の土地は砂質土壌であること及び肥料は現地物が有効である旨の肥料が必要であることを前提とするような記載がある。

(5) その他に、右甲第三号証には、J・K植民地イタピシリカ地区における営農収支はサンパウロ方面と大差はない見込みであるが、既入植者の例より見て大体第二年度から自立態勢に入ることが可能である旨の記載があり、また前記乙第七号証のJ・K植民地募集要領には、同植民地へ入植するに必要な最低携行資金は一二万円である旨の記載がある。

(6) 松野武利は、当面の生活に困るほどの経済状態にあったわけではないが、右のような財津勇の説明及び前記パンフレット類の記載内容から考えて、同植民地へ入植すれば、開拓自営農としての苦労は相当なものがあるとしても、現在の状況よりも明るい将来の見通しがあると判断して同植民地への入植を決意し、妻の原告松野美代子を説得してこれに同意させ、前記勤務先を退職し、入植の準備にとりかかった。ところで、財津勇の説明によると、分家独立用ロッテの申込者が多いとロッテの分譲が受けられないかも知れないから、できるだけ早い船で渡航した方が良いということであったので、松野武利らは、渡航前に行なわれる入植者に対する講習も受けずに、翌三五年二月に出航する船で渡航すべく準備を進めた。その際、松野武利は右財津勇に対し、前記パンフレット中の融資関係資料に記載のある渡航前融資を受けたい旨申入れたところ、同人の説明によると、右融資は手続上松野武利らの出航までに間に合わないうえ、現地でも営農資金及び独立資金の融資を受けることができ、その方が利息及び償還期限の点で有利であるということであったので、同人は渡航前融資の申込を取り止め、家財を処分し、また父から借金するなどして、吉田光治と共に合計約一九〇万円ほどの農業機械類や衣類を買いそろえ、携行資金を用意した。

(7) そして、松野武利は、長女の原告満代を父母に預け、妻及び二女の原告昌代を伴い、吉田光治の家族と共に同年一月二二日福岡を出発し、同年二月二日神戸港からブラジルへ向け出航した(松野武利らが右日時に日本を出発したことは当事者間に争いがない。)。

(二)  以上の認定のうち、重要な点について以下に補足する。

(1) 前項の(3)の認定事実のうち、海協連が財津勇に対し、松野武利の家族が吉田光治の構成員として入植し、その後分家独立して分家独立用ロッテの分譲を受け得る旨回答し、財津勇がその旨松野武利に伝えたとの認定について

被告は、この点につき、前記甲第三号証の記載を読めば、分家独立とは、入植者の子弟が現地で婚姻等により分家独立する場合をさすことは誰にでも理解できることであるから、海協連及び財津勇が、これに反する前記認定のような説明をするはずがなく、また右認定のような入植方法は、いわば脱法的手段であって、そのような方法を海協連及び財津勇が勧めるはずがないと主張する。しかし、証人財津勇の証言によると、稼働力三名以上という入植条件は、同植民地の入植条件というよりも、開拓自営農としてブラジル国へ入国する場合に、査証が発給されるための条件であることが認められ、これによると、同国以外から同植民地へ入植する場合において、稼働力三名以上の条件が同植民地への入植条件となってくるのであるが、後記認定のとおり、同国内における植民地の入植条件及び分家独立の条件等はきわめてルーズなものであって、最高権力者である植民地所長の意向次第では、右条件に形式上副わない場合でも入植ないし分家独立が可能であり、永年同国への移住の斡旋援助等を行なって来た海協連としても、その辺の事情には通じているものと思われるから、単に被告らの主張するような論拠をもって、前記認定を覆えすに足りない。

もっとも、前項の認定事実及び右事実に照らしても、海協連の回答が稼働力三名という条件は、単に入植の際の形式的な条件にすぎず、入植後は、直ちに、しかも当然に分家独立用ロッテの分譲が受けられるとの趣旨であったとは到底考えられず、松野武利が財津勇の説明を右のような趣旨で理解したとすれば、それは軽率のそしりを免れないであろう。

(2) 次に、前項(4)の認定事実のうち、財津勇が松野武利に対し、入植地の土地は良く肥えた土地で少なくとも三年くらいは無肥料で耕作可能であると説明したとの認定について

前記認定のとおり、松野武利が財津勇から交付を受けた甲第三号証の資料には、右認定に抵触する記載がある。しかし、その記載内容から右甲第三号証より一年あまり前に作成され、海協連から県海外協に配布されたと考えられる乙第七号証には、特に地区分けせずにJ・K植民地一般について、その土壌がテーラロシアに次いで良く肥えたマサッペのところが多いと記載されており、また、これには甲第三号証には記載のない風土病について前記認定の財津勇の説明どおりの記載があり、これらの事情と≪証拠省略≫を合わせ考えると、財津勇が、右二つの書類の内容を十分吟味しないで混同して松野武利に前記認定のような説明をしたことは十分考えられる(なお、期間を三年くらいと認定したのは、乙第二三号証の三の記載の方が時期も早く信用し得ると考えられるからである。)のみならず、≪証拠省略≫によると、福岡県以外の県海外協においても同様な説明をしているところが二、三あることが認められ、これらの事実に照らすと、海協連は、J・K植民地の土壌の性質についての甲第三号証と乙第七号証との矛盾について、各県の県海外協に対し、適切な指示説明をしていなかったのではないかということが十分推認できる。そうすると、甲第三号証の当該部分の記載のみをもっては、前記認定を左右するに足りないものというほかない。

(3) その余の認定については、特にこれを覆えすに足る証拠はない。

2  J・K植民地の実情について

(一)  J・K植民地の概況について

≪証拠省略≫を総合すると、以下の事実を認めることができ、これを左右する特段の証拠はない。

J・K植民地は、ブラジル国移植民院及び同国バイア州の共営植民地で、同州の州都サルバドール市から北西方向に自動車で約二時間(約八〇キロメートル)、同植民地を管轄する海協連(昭和三八年七月五日以降は海外移住事業団)レシーフェ支部(現地法人名は、ジャミック移植民有限責任持分会社レシーフェ支部)のあるレシーフェ市から南西方向にバスで約二日間(約一八〇〇キロメートル)の距離に位置する。同植民地は、昭和三二年ごろから、主としてブラジル人の自営開拓農を導入する目的で開発が始められたものであるが、その営農の模範とする意味で外国人移住者も積極的に導入され、日本人移住者も同三四年春ごろから海協連により本格的に導入された。同植民地のうち、当初開発の始められたルンダ地区には植民地の中枢部が設けられ、道路、電気、水道、管理事務所、住宅、学校、診療所、映画館、灌漑用溜池、共同試作地等の施設がほぼ完備され、同国の公務員で同植民地の最高責任者である植民地所長や、日本人入植者の指導、援助のため海協連から派遣された現地駐在員らも同地区に居住している。同地区における日本人入植者は、他の植民地から転耕して来た島田孝之助の家族ぐらいであり、他の日本人移住者の入植地は、その後同地区の周辺に拡大されていったサンペドロ、イタピシリカ、カマサリ、ケブラコッコ等の各地区であるが、右各地区の施設はルンダ地区に較べ極めて貧弱である。同植民地における正確な気象条件は明らかではないが、サルバドール市における一九一一年以降の平均値によると、年間平均気温は摂氏約二五度で寒暖の差はほとんどなく、年間雨量は一八四九ミリメートル、降雨日数は二二五日であるが、雨期(三、四月ごろから八、九月ごろまで)と乾期(九、一〇月ごろから二、三月ごろまで)に分かれ、一年を通じて均一ではない。同植民地における主作物は蔬菜類であり、そのほとんどがサルバドール市(人口約六〇万)に供給される。同植民地から約六キロメートルの地点にあるマタ・デ・サンジョアンからサルバドールまでは汽車が日に三往復しているが、収穫物の運搬は、トラック便による以外にない。松野武利が入植したイタピシリカ地区は、ルンダ地区中心部から約八キロメートル隔てた地点にある総面積約一六〇〇ヘクタールの植民地で、平均約二五ヘクタールのロッテが六二箇あり、専ら日本人移住者を入植させる目的で創設されたものであって、同植民地に入植した日本人移住者の大半が同地区に入植したのであるが、電気、水道はなく、自動車用道路、学校等は完備されていない。

(二)  分家独立用ロッテについて

≪証拠省略≫を総合すると、以下の事実を認めることができる。

(1) イタピシリカ地区の六二のロッテは、当初の入植計画においては、内五〇ロッテを入植者に分譲し、二ロッテを集団住宅地とし、残り一〇ロッテを分家独立用ロッテとして保留することになっていたが、その後入植計画に変動があり、昭和三五年三月一〇日、同年四月五日、同年七月一五日、昭和三六年三月二〇日、同年一一月一二日の数次にわたり日本人移住者がJ・K植民地に導入され、イタピシリカ地区には五〇家族以上の移住者が入植したため、当初留保する予定であった分家独立用ロッテにも新規移住者が入植してしまった。もっとも、昭和三五年四月五日に同地区に入植した都築福男の家族構成員である丹後新吉(独身者)が、同年八月ごろ第三次入植者に対するロッテ分譲に際し、将来の分家独立に備え、植民地所長(ジョン・メレイレス・デ・ソーザ)から同地区内のロッテについて登録を許可された例もあり(≪証拠省略≫では昭和三八年五月に分譲を許可されたことになっているが、≪証拠省略≫に照らすと、これは誤りであるかさもなくば正式に分譲を受けて入植した日ではないかと推測される。)、入植計画の変更により分家独立の余地が全くなくなったものでもない。しかし、前記数次にわたる入植の後は、同地区内のロッテは特に条件の悪いものを除きすべて入植者に対し分譲されたため、実質上分家独立用ロッテはなくなり、その後の同地区内での分家独立は事実上不可能となった(≪証拠省略≫によると、昭和三八年以降同地区内で分家独立が認められ独立者に対しロッテの分譲が許可された例が数例あるが、≪証拠省略≫によると、これらは、新規入植者が退耕した後そのロッテの分譲を受けたものであって、本来分家独立用ロッテとして留保されていたロッテの分譲を受けたものではないことが認められる。)。なお、J・K植民地は広大な植民地であり、次々に新しいロッテが開発されていたから、同植民地全体としては、分家独立する者にロッテを分譲する余地はあった(≪証拠省略≫によると、同植民地内には分家独立用ロッテが二〇箇留保されていたということであるが、それがどの地区に留保されていたのかは明かでないから、イタピシリカ地区に分家独立用ロッテがなかったという前記認定を覆すに足りず、せいぜい、J・K植民地全体の内に余裕のロッテがあったとの根拠にしかなり得ない。)。

(2) ところで、植民地内における分家独立とは、正式には入植者の子弟が現地で婚姻等により分家する場合をいうのであるが、植民地内における最高権力者である植民地所長の意向次第では、右要件に該当しない場合でも、また場合によっては営農実績にも関係なく(前記丹後新吉の例がそうであろう。)分家独立が認められることがあり、分家独立に際してロッテを分譲する基準は極めて弾力的に(悪くいえば場当り的に)運用されていた。

(3) 以上の認定に抵触する前示各証拠は既述のとおりこれを覆えすに足りず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(三)  土地条件について

≪証拠省略≫を総合すると、次の事実を認めることができる。

J・K植民地のうち当初開発の始められたルンダ地区は非常に緩慢な丘陵であり、その土壌はマサッペ(水成岩の風化土壌で、テーラロッサに次いで肥沃であり、腐植にも富んでいる。)のところが多く、灌漑用施設やトラック用道路も比較的整っているが、それ以外の地区の土地条件はルンダ地区に較べ劣っている。イタピシリカ地区の土地は相当に起伏があり、大体が直径一五センチメートル以下の再生雑木林で覆われ一部は草原であるが、ロッテによっては岩山等のため耕作不能面積が六、七〇パーセントにも及ぶところがある。土壌は全般的に砂質土壌であって決して肥沃な土地であるとは言えない。またJ・K植民地のあたりでは雨期には相当な量の降雨があるが、乾期には幾日も雨のない日があるため灌水の必要があるところ、イタピシリカ地区は前述のように相当の起伏があり、なるほど谷間には小川が流れていてほとんどロッテがこれに接するので、小川に堰を造るなどすれば灌漑用の水にはさほど不足はないはずであるが、なにしろ各ロッテは平均二五ヘクタールにも及ぶため、これを灌水するにはかなり大規模な設備(ポンプ、モーター、パイプ等)を必要とする。しかし、植民地当局により設置された灌漑設備はなく、入植者が個人で各自のロッテを灌水しなければならない状況であった。その他、各ロッテと集団住宅地及び同地区と植民地中枢部のルンダ地区を結ぶトラック用道路はなく、馬車が通行できる程度の道があるのみであり、その道も雨期にはぬかるんで使えないため、入植者が個人的負担で道路を建設しなふればならない状況であった。

ところで、原告らの主張によると、イタピシリカ地区の土壌は多量の肥料を要する痩地であったということであり、≪証拠省略≫中には右主張に沿う部分があり、また≪証拠省略≫によると、同地区におけるトマト栽培に要する経費中肥料代が売上高の五〇パーセント前後からひどい場合には一〇〇パーセントにも及ぶことがあるのに対し、吉田光治らが転耕したジャコビーナ市の農場では一〇パーセント台であり、また我国内における平均値では一〇パーセントを越えないことが認められるけれども、売上高は気象条件等による作物の出来、不出来や社会経済条件による作物の単価変動によっても大きく相違するから、売上高中の肥料代の占める割合ではその土地が実際どの程度の肥料を必要とするのかは必ずしも明かにすることができないのみならず、仮に売上高中に肥料代の占める割合によって比較するとしても、≪証拠省略≫によると、海外移住事業団が行なった移住地農家経済調査の結果では、J・K植民地の入植者三〇世帯の平均値を見ると、短期作物の売上高は八、七一四・二(エヌ・シー・アール・ドル)に対し、肥料代は一、三六四・六(同)であり(もちろんこれがすべて短期作物にのみ施肥されたかどうかは不明である。)、その割合は一七パーセント程度であることが認められる(もっとも右三〇世帯がすべてイタピシリカ地区に所属するものかどうかは不明であるが、前示のとおりJ・K植民地入植者の大半はイタピシリカ地区に入植しており、特に条件の良いルンダ地区入植者は極めて少ないから、右調査結果はイタピシリカ地区のみの調査結果とそう大きな違いはないと考えられる。)から、右事実に照らすと、前記≪証拠省略≫によって認められる例は特別な事情があって売上高が少なかったためではないかとの疑いが濃く、結局のところ、前記例に基づいてイタピシリカ地区の土壌が極端な痩地であると断定することはできないが、特に肥沃な土地でないことも明白であって、要するに普通の土地かまたはそれよりもいくらか地力の劣る程度の土地であったのではないかと考えられる。前記認定中その余の点についてはこれを左右する格別の証拠はない。

(四)  風土病について

≪証拠省略≫によると、イタピシリカ地区においては、キニーネやバルダン等のマラリアの特効薬が効く熱病及び手足に激しい掻痒を感ずる皮膚病に罹患した者が相当数あり、入植者たちは前者をマラリア、後者をフイエラと称する風土病であると考えていたことが認められる。

しかしながら、≪証拠省略≫によると、昭和三六年一二月二五日から二七日までの三日間にわたり、日本人医師今田がJ・K植民地の各地区の日本人入植者五三名を巡回診察したところ、マラリア患者はなく、新入植者には土まけ、マンガかぶれ等のアレルギー性皮膚炎に罹患した者が多かった事実が認められ、また≪証拠省略≫を総合すると、ルンダ地区ではマラリア患者の発生は全くなく、他方イタピシリカ地区では入植当初入植者がよく熱を出すことがあったが、開拓が進むにつれてそのようなこともなくなった事実が認められる。これらの事実に照らすと、前記熱病が真正のマラリアであったか否かは疑わしく、仮にマラリアであったとしても、それは多数の犠牲者を出す悪質なマラリアでなく、自家療法で治癒する程度の軽度のものであったろうと思われる(なお、≪証拠省略≫によると、松野武利及び原告美代子は、日本に帰国後医師からマラリアと診断され治療を受けたことが認められるが、後記のとおり、右原告らはブラジル国に在住中、J・K植民地のみならず、他の各所を転々としていたのであるから、右事実によってJ・K植民地でマラリアに罹患したものと認める根拠とはなし得ない。)。また皮膚病についても、それが特に風土病と呼ぶに値いするものかどうかは疑わしく、環境の変化に不可避的に伴う一時的な疾病であって、慣れによって抵抗力が生じ、そのうちに克服できる程度のものではなかったかと考えられる。

いずれにせよ、熱病や皮膚病等のため入植者らが多かれ少なかれ健康を害したことは否めないが、これが主たる原因となって営農が不可能となった例を認める証拠はない。

(五)  融資関係について

≪証拠省略≫を総合すると、次の事実を認めることができ、他にこれを左右するに足る証拠はない。

日本人入植者に対する種々の現地融資は、日本海外移住振興株式会社(現地法人名はイジュウシンコウ信用金融株式会社)が取扱っており、その融資の種類には、共同利用施設資金貸付、営農資金貸付(長期及び短期)、その他土地購入資金、独立資金貸付等があり、融資の担保としては不動産、農業機械機具等の動産及び収穫物等の物的担保並びに保証人を必要とした。イジュウシンコウ信用金融株式会社の本店はリオ・デ・ジャネイロにあり、レシーフェにはその支店がなかったが、海協連(ジャミック)レシーフェ支部がその出先機関として、管轄区域の日本人移住者への融資手続一切を担当処理していたのであり、J・K植民地入植者は右レシーフェ支部を通じて融資を受ける建前となっていた。ところで、イタピシリカ地区における開拓事業は、広大な原野を切り開き、これを開墾し、道路や灌漑施設を設け、かつ多量の肥料や種苗を用いて作物を栽培して行かねばならず、そのためには入植当初から相当多額の資金を必要としたのであるが、入植者の携行資金では到底これをまかない切れず、直ちに融資を受ける必要に迫られたのである。しかしながら、入植者は入植当初においては十分な物的担保を有せず、保証人を付するにも困難な状況にあったため、イジュウシンコウ信用金融株式会社は入植者の融資申込に即座に応えることがなく、入植者らは容易に融資を得ることができなかった。ロッテの所有権(地権)を取得すれば、右会社のみならず市中銀行からも融資を受けることは可能であったが、予定されていた地権交付期限(入植後二年)もブラジル政府の方針変更により延々となり、昭和三九年に入ってようやく仮地権の交付が始められたにすぎない。しかもイジュウシンコウ信用金融株式会社は同年には資金繰に逼迫し、一時期は一切の融資を停止せざるを得ない状況にあった。

(六)  入植者の営農状況について

≪証拠省略≫及び前記(一)ないし(三)の各事実を総合すると、次の事実を認めることができ(る。)≪証拠判断省略≫

J・K植民地には最も多いときで八〇数家族の日本人移住者が入植し、そのうち六〇家族余りがイタピシリカ地区に入植したのであるが、全体的にみて入植者の営農成績は振わず、そのため退耕者が続出し、昭和四二、三年頃までには少なくともイタピシリカ地区入植者の半数近くが退耕した。営農成績が振わなかった原因は、時期的に気象条件や社会経済条件に恵まれなかったこともあろうが、土地条件が良くなく農業生産コストが高くついたことも重要な原因の一つであった。もっとも退耕者の一部には、もともとJ・K植民地に期待を持たず、条件の良いサンパウロ方面へ進出するための足がかりとして同植民地に入植したにすぎない者もあったようであるが、多くは同植民地での営農に失望し、他に条件の良い土地を求めて転耕して行ったのである。ちなみに、海外移住事業団が行なった昭和四三年度移住地農家経済調査の結果によると、J・K植民地入植者三〇所帯の平均値では、入植後八年を経過した段階でも農業収入は家計費をまかなうに足る程度しかなく、農業外収入によってようやくいくらかの黒字を保っているにすぎない。

3  松野武利とその家族の入植後帰国までの経過について

≪証拠省略≫を総合すると、次の各事実を認めることができる。

(一)  松野武利とその妻の原告美代子及びその二女の原告昌代は、吉田光治の家族構成員として、昭和三五年三月九日にJ・K植民地イタピシリカ地区に入植した。吉田光治の家族には同地区の四七番ロッテが割当てられたのであるが、同人と松野武利は同ロッテの別々の場所を開墾し、トマトの栽培にとりかかった。同人らは同地区に入植した第一陣の移住者であり、同時に入植したのは三〇家族あまりであったので、同地区内には入植者にまだ割当てられていない空ロッテが多数存在した。そこで、松野武利は同年四月末ごろ、海協連レシーフェ支部から派遣されていたJ・K植民地駐在主任の西本伍一に対し、いずれは吉田光治の家族から分家独立して同地区内のロッテを取得したい旨の入植前からの希望を伝えたところ、同人から、同地区内の分家独立用ロッテは入植計画が変更されすべて新規入植者に対する計画移住地に充てられたから、同地区内には分家独立者に分譲するロッテはなくなる旨のことを聞かされた。その後同年六月頃、右西本の後任として派遣された向井田技に対し正式に分家独立用ロッテの分譲を植民地当局に取次いでくれるよう申入れたが、同人も分家独立用ロッテは新規入植者に対する割当地に変更され、七月には第二次入植者が入るから同地区内で分家独立用ロッテを取得することはできない旨返答した。もっとも同人は同植民地の所長ジョン・メレイレス・デ・ソーザに対し、一応松野武利の要望を取次いだが、同所長は、松野武利が入植して間もない頃であり吉田光治のロッテの開拓もまだ軌道に乗っていないこと、同植民地としては十分ロッテの余裕があったこと等を考慮し、松野武利には吉田光治の営農の見通しが立つまで当分の間分家独立を見合わせるよう返答した。しかし、松野武利は、同地区の土地条件等が県海外協の説明とあまりにも喰い違っていたこともあって、県海外協ないし海協連に対する不信の念を深めていたため、分家独立用ロッテ取得の見通しが一歩遠のくや、県海外協及び海協連職員に騙されたと考えはじめ、もはや植民地当局や海協連の駐在員の言葉を信用することができなくなった。そのうえ、吉田光治のロッテで同人と共に開拓に励むとしても、最も収益性の良いトマトを栽培する場合、これは連作ができないため作付毎に新たな土地を次々に開墾して行かねばならず、それに要する灌漑施設等を備える資力にも乏しく、いずれは吉田光治ともども行き詰ってしまうと考えるに至り、同植民地での営農意欲を失なっていった。そこで、県海外協ないし海協連の移住斡旋についての無責任さをただすため、日本への帰国を望むようになったのであるが、多額の旅費を捻出することができず、海協連職員に対し海協連の費用で帰国させるよう要求したがこれもかなわなかった。折しも同植民地近くのブジューカ(地名)で農場を営んでいた五味栄が協力者を求めていることを聞き知り、とりあえず同人の農場で働いて帰国資金を畜えようと考え、J・K植民地を退耕することを決意した。そして同植民地所長の了解及び何ら不都合なことなく退耕する旨の証明を得、同年七月一〇日、妻子を伴って同植民地を退耕し、五味栄の農場へ入った。

(二)  松野武利はJ・K植民地退耕後も吉田光治を訪ねて度々イタピシリカへ出入りしていたのであるが、その際海協連の駐在員や他の入植者に粗暴な言動に出ることがしばしばあった。もっとも、松野武利は炭鉱地帯の出身者であるため言葉遣いが荒く、体格も大きかったので、自分では些細な事と思っていたようであるが、時には行き過ぎることもあったようである。そして、昭和三六年一月二一日、ちょっとした言葉の行き違いが発端となって、松野武利が植民地所長や他の入植者に強硬な抗議をしたことを同所長に粗暴な言動との印象を与え、同所長から植民地外に退去させられるという事件もあった。右の件は公式には松野武利が植民地管理者の言うことを聞かず、島田マリアに暴行を加え、その上常習アルコール中毒者であるという理由でJ・K植民地を追放されたこととされているが、右理由中には事実に相違する点も含まれており、また松野武利はすでに植民地を任意退耕していたのであるから、追放というのは正確ではなく、単に植民地から退去させられたにすぎない。

(三)  同人はその後同年三月五日には五味栄の農場を出て、昭和四〇年六月ごろまでの間バイア州内の各地で分益農(地主から提供を受けた土地と資金で営農し、その純益を地主と等分する形式の営農)をしながら転々としたが、自然条件に恵まれなかったことや営農の工夫、努力に至らない点があったこと等の原因で、その成果は思わしくなかった。その間には松野武利と原告美代子との間に原告真理及び敏之が生れ(この点は当事者間に争いがない。)日本への帰国の道は増々遠のくばかりであった。また、松野武利はその間、海協連ないし海外移住事業団のリオ・デ・ジャネイロ支部長の大谷晃やレシーフェ支部長の竹野家茂に対し、移住斡旋条件の完全履行または日本への送還を強硬に要求したが、いずれも実現されなかった。もっとも竹野家茂は松野武利のブラジルにおける経済的自立のために、現地会社への就職斡旋や自営農として立つために要する資金の融通等の助力を添えたが、松野武利の要求が身勝手すぎたことや具体性を帯びない法外なものであったこと及び前記イジュウシンコウ信用金融株式会社の金融事情等もあって、いずれも同人の要求を満し得るところとならなかった。

(四)  そして、松野武利は、ブラジル国において自営農として立って行く見通しを失ない、日本へ帰国する資力もなく、前途に絶望を感じ、海協連に対する怒りのあまり竹野家茂を巻き添えにして一家心中をしようと決意し、昭和四〇年八月一三日、レシーフェにある日本領事館において、右竹野家茂に対しダイナマイトを突きつけこれを爆破させようとしたが失敗し、同月一八日、ブラジル国公安当局から危険人物であるとして国外追放を命ぜられ、同年九月一六日、空路羽田へ帰着した。また残された原告松野美代子らは国援法(国の援助を必要とする帰国者に関する領事官の職務等に関する法律)の適用を受け、翌四一年六月一五日海路神戸港へ帰着した。松野武利は、入植当時二九才の身体強健な男子であったが、五年余りにわたる異国での苦闘の末、健康を害し生活力も気力も失ない、無残な姿で祖国の地を踏む結果となった。またその家族たちの状況も無残なものであったことに変りはない。

≪証拠判断省略≫

4  以上に認定した事実に基づいて検討するに、原告らの主張する分家独立用ロッテの分譲についての県海外協の説明及び海協連作成のパンフレット類の記載内容と現地の実情との喰い違いは確かに認められるけれども、県海外協の説明は入植後直ちにしかも当然に分家独立用ロッテの分譲が受けられるというのではなく、しかも現地の実情においては、イタピシリカ地区内においては分家独立用ロッテが新規入植者用のロッテに振替えられてしまっていたが、J・K植民地内には余裕のロッテが存在したのであり、これを分家独立の際に取得し得る可能性は十分あったのであるから、この点についての喰い違いは松野武利の移住の決意を誤らせたという意味においてさほど重大なものではない。また、風土病についての説明と現地の実情との間には全く喰い違いがなかったわけではないが、イタピシリカ地区には営農を困難ならしむるほどの風土病があったわけではないから、この点も松野武利の移住の決意を誤らせたものとはいえない。問題は、土地条件等営農の成否に直接関係する点である。県海外協の説明及び海協連発行のパンフレット類によると、イタピシリカ地区の土地はテーラロッサに次いで肥沃な土地であり、気象条件も農業に適し、農業収支はサンパウロ方面と大差はなく、第二年度から自立態勢に入ることが可能であり、現地において種々の融資を受けることができる等々、同地区における営農は優れた成果を約束するかの如き印象を強く与えるものであった。もっとも、パンフレット類の記載内容には、これと矛盾する記載も含んではいたが、全体としての印象を変えるほどのものとはいえない。他方、現地の実情を見ると、同地区の土壌の肥沃度は普通以下であり相応の肥料を必要とし、また灌漑用の大規模な設備や営農用トラック道路の建設等も自費でまかなわねばならず、これらに要する費用その他広大な原野を切り開くに要する費用、収入が上がるまでの生計費等を考慮すると、営農を進めるにはかなり多額の費用を必要とするところ、入植の際の必要最低携行資金が一二万円とされていたこともあって、入植者らは自己資金に乏しく、これらの費用を借入金によって都合するほかなかったのであるが、現地融資は容易に受けることができず、同地区における営農は出発早々苦難に満ちたものであった。もとより開拓農業は幾多の自然的、経済的困難を乗り越えて行かねばならないものであろうが、入植後数年にして同地区の入植者の半数近くが退耕し、しかも残留者の営農収支がはかばかしくないという状況は、どのように見ても前記県海外協の説明等と大きくかけはなれたものであるというほかない。もっとも右のように退耕者が続出し、営農成果が思わしくなかった原因のうちには、ブラジル政府側の土地分譲方針の変更、イジュウシンコウ信用金融株式会社の資金事情、その他自然条件や社会経済条件の変動等、海協連としてはいかんともしがたい事情もあったようであるが、これらにのみその原因のすべてを帰せしめられるものではなく、基本的には土地条件の厳しさとこれに対処するに足る資金力を入植者が有しなかったことがその原因となっていたものと考えざるを得ない。とりわけ農業にとって最も重要な土壌の肥沃度が前記県海外協の説明と大きく喰い違っていたことは、入植者の期待を裏切り、営農の将来性にかける入植者の意欲を削ぐものであったといえる。

そして、松野武利は、前記分家独立用ロッテや風土病に関する県海外協の説明もさることながら、土地条件等の営農の見通しについての説明ないしはパンフレット等の記載により、イタピシリカ地区における営農の将来性を判断して入植を決意したのであるが、この点についての現地の実情は重要な点で相違していたのであり、予め正しい現地の実情について説明を受けておれば、入植を決意することはなかったであろうと考えられる。けだし、同人は当面の生活に窮してその打開のために移住を決意したわけではなく、将来の炭鉱業界の不況を案じ、より将来に希望のもてる道として移住を選んだのであり、しかもそれは、同人のこれまでの社会的経済的基盤をすべて整理し全く新しい事業に踏み込むという重大な決意に基づくものであったのであるから、入植地における営農条件及びその見通しに関する資料は、入植の決意に重大な影響を及ぼしたものであることは明らかといえるからである。

ところで、松野武利はイタピシリカ地区に入植後わずか四か月で退耕しており、その直接の原因は分家独立用ロッテの分譲が受けられなかったことにあったのであるが、根底においては現地の実情が県海外協の説明と余りにも違い過ぎ同地区における営農の将来性について不案を感じ取ったこともその原因となっていたのである。もっともわずか四か月の営農で見切りをつけたのは早きに失し、同人の努力に不十分な点があったのではないかとも考えられなくはないが、仮に同人が数年間同地区で営農に励んだとしても、前記退耕者の例や残留者の営農状況に照らせば、結果的には同人も同様の事態に至ったであろうことは十分推認するに難くなく、同人の見通しと決断が誤りであったとは断定できない。

なお、被告は、松野武利の海外移住の失敗がもっぱら同人の責に帰すべき事由によるものであるとして、なおほかにも幾つかの事実を主張しているが、原告らは入植地における営農の失敗というより、現地の客観的な実情と異なる内容の入植斡旋により入植させられたこと自体をその被害として主張しているのであり、また松野武利に右被告の非難するような事実がなかったとしても、前示日本人入植者の営農状況に照らすとき、入植の成功は必ずしも期待できず、それによって損害の発生を回避し得たとも考えられないから、これらは不法行為の成否には直接影響のないものとして、個個に取り上げて判断しないこととする。

三  海協連の責任について

1  請求原因3の(一)記載の事実は当事者間に争いがない。なお、被告は、海協連は海外移住者の募集、選考、講習等の業務を県海外協に委嘱していたにすぎず、その間に指揮監督等の支配関係はなかったから、県海外協の行為につき海協連が責任を負う理由はないと主張するが、原告らは海協連の行為それ自体の過失を主張しており、当裁判所もその意味において海協連に責任があると判断するので、右被告主張の点は問題とする必要がない。

2  右争いのない事実によると、海協連はその業務として海外移住地の調査、選定をなし、それに基づいて募集要領等を作成し、これを県海外協に配布して移住希望者の募集、選考等の事務を委嘱していたのであるが、海外移住の斡旋業務を行なう者は、国内における就職等の斡旋を行なう場合と異なり、移住希望者において入植地の実情等を自ら調査し入植すべきかどうかを決定することは殆んど不可能なのであるから、移住地が営農にふさわしい条件を有しているかどうか、そこで入植者が営農を進めるために備えなければならない条件は何かなどを、専門的な見地から十分に調査したうえで移住希望者の導入を計るべきことはもちろん、右調査の結果を詳細かつ正確に移住希望者に知らせ、移住の適否の決断を誤らせることのないようにすべき注意義務を負うものというべきである。

ところで、前記二で認定判断したところによると、松野武利が県海外協からJ・K植民地への入植斡旋を受けた際交付された海協連作成のパンフレット類の記載内容及び県海外協職員の説明と現地の実情との間には、同人の入植の決意を誤まらせるほどの喰い違いがあったのであり、このこと自体において海協連の現地調査ないし資料作成の不備を推認するに十分であり、また県海外協職員の説明についても、海協連が県海外協に配布した募集要領等の記載の不備、不明確、ないしは具体的な指示の欠如に由来するものといえる(前記二の1、(二)、(2)のとおり)から、この点で海協連は松野武利の移住の決意を誤らせJ・K植民地へ入植させたことにつき過失責任を免れない。

四  損害について

1  慰藉料

前記二の1、(一)、(6)及び3の各認定事実に照らすと、松野武利とその家族がJ・K植民地へ入植した結果受けた精神的、肉体的、経済的打撃は甚大なものであったことを推認するに難くない。もっとも海協連としてはJ・K植民地への入植を斡旋したにすぎないのであるから、松野武利が同植民地を退耕後帰国に至るまでの間の事情は、海協連の過失と何ら関係がないかのようであるが、前記二の2、(六)の事実に照らせば、仮に松野武利が同植民地を退耕しないで留ったとしても、ようやく生計費を確保する程度の営農成績しか上げられなかったであろうと推測でき、退耕後の同人にそれ以上の経済活動を要求することもできないから、少なくともその限度では海協連の過失との間に相当因果関係を認めうる。また、右のような営農成績の下ででは多額の帰国旅費を蓄えることも容易ではなかったと考えられるから、強制送還ないしは国援法による帰国が実現するまでは海協連の過失による被害が継続していたものといわざるを得ない。しかし、前記二の3で認定したように、松野武利がJ・K植民地退耕後分益農等の経済活動に失敗し、経済的自立を果すことができず、その家族とともに厳しい生活苦に陥入り、遂にはダイナマイトによる無理心中を図るまでの破局に立ち至った経緯については、同人が海協連の移住政策に対する憤りのあまり海協連に対しあまりにも法外な要求を突きつける等のみに終始し、自らの着実な努力を十分尽さなかったという意味で、その破滅的な結果のすべてを海協連の責任とすることは妥当でない。そこで右の事情も十分考慮し、松野武利とその家族が、海協連の過失により、そのすべてを賭けた海外移住の結果、五年余りにわたり、その生計を維持し得るにすぎない程度の収入の経済生活を余儀なくされ、遂には何ら得るところもなく帰国せざるを得なかったこと及び後記逸失利益についての判断の結果その他諸般の事情を考慮すると、海協連の本件不法行為による松野武利及び原告美代子の慰藉料は各金八〇万円、同昌代のそれは金二〇万円とするのが相当である。

2  松野武利の逸失利益

原告らは、松野武利が移住しないで従前の勤務を続けておれば、帰国時までの間に得られたであろう給料収入額からその間の生活費を控除した残額の得べかりし利益があったとして、その損害の賠償を求めているのであるが、前記慰藉料の算定に当っては、同人とその家族がようやく生活費をまかなう程度の経済生活を余儀なくされたという事情(換言すれば、従前の勤務を継続していた場合との生活の較差)を考慮しているのであるから、改めて別個に原告ら主張のような逸失利益をそのまま認めることは損害の二重評価となり相当でない。もっとも、損害の算定にあたっては、具体的な根拠に基づき、個別的に認定判断すべきであるから、まず具体的な逸失利益を算定したうえで、補完的に参酌し尽せない事情を含めて慰藉料を算定するのが本筋であるが、松野武利において従前の勤務を継続した場合とブラジル国での現実の生活との較差を具体的に認定する資料に乏しく、また現実の生活との較差のすべてを逸失利益と認めることが相当でないこと前記のとおりであり、そのうえ前記慰藉料算定の基礎となった事情の主たるものが経済的な事情であること等考慮し、原告ら主張の逸失利益については慰藉料算定の一事情に含めて判断したものである。

3  旅費

松野武利とその家族がJ・K植民地に入植していなければ、往復に要した旅費を支出する必要はなかったのであるから、これは明かに本件不法行為による損害といえる。そして、≪証拠省略≫を総合すると、松野武利とその家族のブラジル国レシーフェまでの往復旅費として、同人が少なくとも金四三万八七〇〇円を、また原告美代子が金三九万三三七一円をそれぞれ負担したことが認められる。

4  以上によれば、松野武利の損害額は金一二三万八七〇〇円、原告美代子のそれは金一一九万三三七一円、同昌代のそれは金二〇万円となる。

五  被告の消滅時効の抗弁について

被告は、本件不法行為に基く損害賠償請求権の消滅時効の起算時は、松野武利がJ・K植民地を退耕した日である昭和三五年七月一〇日か、あるいは同植民地を追放された同三六年一月二一日であると主張するが、前記四の1で認定判断したように、本件不法行為による被害は松野武利らが帰国するまでの間継続していたものというべきであり、しかも当時の状況からみれば同人らが帰国できる見通しは全くなかったのであるから、帰国が現実のものとなるまでは原告らにおいて本件不法行為に基づく客観的な損害を知ることができなかったものというべきである。そうすると、本件不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点は、早くとも松野武利が国外退去処分に付せられた昭和四〇年八月一八日と見るべきであり、本件訴が提起されたのが昭和四三年一月一六日であることは記録上明かであるから、三年の時効期間は経過しておらず、被告の抗弁は採用できない。

六  権利義務の帰属について

以上によれば、本件不法行為に基づき、海協連に対し、松野武利は金一二三万八七〇〇円とこれに対する本件不法行為後である昭和四〇年九月一六日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金を、原告松野美代子は金一一九万三三七一円、同松野昌代は金二〇万円及び右各金員に対する本件不法行為後である同四一年六月一五日から完済まで同割合による各遅延損害金をそれぞれ請求する権利を取得したものであるが、松野武利が同四八年八月三〇日死亡し原告らがその権利義務を相続により承継したことは当事者間に争いがないので、結局松野武利の右損害賠償請求の三分の一(四一万二九〇〇円とこれに対する遅延損害金)を原告松野美代子が、各六分の一(二〇万六四五〇円とこれに対する遅延損害金)をその余の各原告がそれぞれ承継取得したこととなる。他方争いのない請求原因1記載の事実によると、海協連の権利義務は、海外移住事業団を経て被告に承継されたから、被告は各原告に対し本件不法行為に基づく損害賠償債務を負うものである。

七  よって、原告らの本訴各請求は被告に対し主文記載の各金員の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担については民訴法八九条、九二条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。なお、仮執行の宣言を付することは相当でないから、その申立は却下することとする。

(裁判長裁判官 権藤義臣 裁判官 大石一宣 裁判官 小林克美)

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